第六章で触れた様に、私は「今の仕事が本当にハートビジネスと呼べるのだろうか」との疑念を断ち切るようにして私は雑貨のお店を京都に作ります。
Hi–Holiday ハイ・ホリデー 1989年6月24日 開店
パイロットショップ・生活雑貨の店”ハイ・ホリデー”を京都・三条にオープンしました。什器家具やディスプレイテーブルや、照明器具などは、当時横浜で私より先に独立開業されていた「フランチェスカ」というアンティーク家具を中心にしたお店の方から卸売りをしていただき、すべて自分たちで DIY によって作り上げました。当時は、京都、大阪、神戸、奈良、などの関西エリア中心に卸先を増やしていましたので、何とか生活は出来ていたのですが、実はこのお店を出したことで赤字は膨らんでいきます 。。。
御存知の通り、京都の中心地(洛中)では道が碁盤の目のようになっており、私のお店はその中心地のほぼ真ん中、南北に通った柳馬場通りに面していました。
洛中には、間口が狭く奥行きが長い町屋と呼ばれる家々がその当時でも多く存在していました。私の店もその町屋を解体した跡地に建てられた新しい4F建てのビルで、当然のことながら間口は狭く、奥行きが長い作りになっていました。
一階の店の前は3mほどセットバックになっていて、店の入り口には自転車が3台ぎりぎりにおけるくらいのスペースがありましたが、当然のことながら通りからは正面まで来なければ、店も発見できない状況だったのです。
そこで私は、A型の立て看板を自作で作り営業中には前の通りから認識できるように表に出しました。
幸い店の入り口は透明ガラスになっていましたので、ガラス面にはステンシルでお店のロゴを入れて、ウインドウディスプレイも施しました。
お店は作っているときは楽しいのですが、いざ開店してみてお客様に来ていただけないことには何も意味をなさないことですので、卸売りを本業として掛け持ちの日々を送るしか選択肢はありません。
初めて人を雇う
とうとう卸売り業と接客業の掛け持ちでは忙しすぎて、店の入口ガラス扉にアルバイト募集のポスターを目立つように掲示します。京都は「学生の街」ともいわれる程に多くの大学があり、地方出身の学生さんも大勢住んでいる事もあり、掲示をして暫くすると自転車に乗って学生らしき人がやってきました。
「いらっしゃいませ!」
「・・・・・・・」
その女性は、肩を少しすぼめながら、商品棚の間を奥のレジカウンターに立っている私に向かって無言で近づいてきます。
「あのぅ、すみません。前の張り紙をみてきたのですが、まだアルバイトは募集されていますか?」
「はい、募集していますよ!」「学生さんですか?面接をご希望ですか?」
「はい、そうです。よろしくお願いします」
私はすぐに電話をして家内を呼びました。そして店番を代わってもらい、一筋東の富小路通りにある「さらさ」という喫茶店に行きました。 この「さらさ」さんは、1984年から営業されているお店で、古い町屋を自分たちで改装して造られた今でも有名なお店ですが、当時はアート・ラボの商談室として利用する事が多かったのです。東京から来られた東急ハンズさんや、ロフトさんのバイヤーさんともここでお昼ご飯を食べたり、お茶を飲んだりしながら商談していました。
面接はスムースに進み、とても感じの良い学生さんだったのですぐに来ていただくことにしました。
聞くところによると彼女は岡山出身で、随分と前から雑貨に興味があって将来は自分でお店も出したいとの話でした。私はこの子をゆくゆくは店長として任せられるようにと、接客の事や商品知識も持ってもらえるようにしようと考える様になります。その後は更に卸売りの仕事が忙しくなり、彼女からの紹介で同じ大学の友人たちを3名ほどシフト制にして雇うことにしたのです。
その中には、今や売れっ子の陶芸作家となった「イイホシ ユミコ」さんもいました。当時から彼女は陶器が好きで、面接の日には弊社が卸売りでヒット商品となっていた「ソレイユ」のティーポットを持参して見せに来てくれたことを今でも鮮明に思い出します。
そうしてスタッフも増えていったのですが…肝心の売り上げは上がっていきません。繁華街として栄える四条通りからもたったの250mぐらいしか離れていないのに…。そして雨が降ると人通りは全くなく、売り上げも0円の日もありました。
当時ズブの素人だった私は、只々それを耐え忍ぶことしかできない状況だったのです。
1991年3月、有限会社アート・ラボ誕生
ショップは中々結果が出ない日々の中で、焦燥感もありましたが、卸売りはなんとか順調でしたので私は会社を法人化することに決めました。
理由はその方が取引先に対しても信用度が上がるという事と、法人になれば節税ができるという点でした。資本金は当初は300万円。そして1991年3月19日、法人として有限会社アート・ラボがスタートしました。
スタッフを雇ったとはいえ、やはり卸売りと小売りの掛け持ちは相変わらずで食事と入浴と睡眠以外の時間は仕事のみの毎日でした。
忙しくて仕事も増えているのに、お金が足りない・・・そんな時期が続きます。
「勘定合って銭足らず」。まさに昔の人はよく言ったものです。
当時は相談できる人も頼れる人もおらず、一人孤独との戦いでした。