MY STORY

私のストーリー(気まぐれ日誌)

2021-06-28

第四章:【仕事探しの旅】

「あの子は、これからいっぱいいろんな経験をして、
苦労は多いけれど最終的には成功するから、何も心配はご無用。
だからあの子を引き止めたらだめよ」


 第三章で触れたように私は美輪明宏さんの言葉に妙な自信をもらいつつ、無事に脱サラをしたのですが、実際問題、脱サラ後の私には預貯金は殆どありませんでした。

その時の勢いで退職をしてしまったからです。でも、今となってはその時に躊躇していたら、ひょっとすると歳を取るまでずっとその会社にいたかもしれないなと思います。そういう意味では、若気の至りも一概に禍となる訳ではなさそうですね。

輸入雑貨会社へアルバイトとして入社

 まずは、当時アメリカから珍しいものを輸入している輸入雑貨の会社にアルバイトで入社しました。商社時代に取引の有ったスキーバッグメーカーの専務からの紹介でした。社長以下社員3名、アルバイトは私を含めて3名の小さな会社ですが、当時できたばかりの東急ハンズ渋谷店には、弊社が輸入しためずらしい雑貨があふれんばかりに並んでいました。

社長は若くお洒落でハンサム。私は、出荷担当から半年で営業補佐と企画担当に昇格し正社員となりました。

当時、新聞やテレビで騒ぎになっていたフルハムロードの三浦社長の「ロス疑惑事件」もこのころの事件ですが、弊社の輸入倉庫が同じ場所だったことと社長が少し親交もあったりしたため NHK から何度かインタビューも受けました。

やがて、輸入商品も当たり外れが大きくなり、巨額の借金と不良在庫が原因で最終的に会社は倒産してしまいます。私は、沈没の予兆を感じたネズミのように倒産の少し前には退社していましたので、実質の痛手を負うことはありませんでした。

 しかしながら、振り返ってみれば私はこの会社から多くのことを学んだように思っています。

商社では企画開発の仕事しか経験がなかったため、営業のノウハウもなければ、納品伝票も書くこともなかったので、毎日一から覚えなければ仕事にならないといった日々でした。また、雑貨業界のことやお洒落なお店を見て回ることなど、次第に興味がわいてきてとても楽しかったことも思い出します。

青山学院の大学の近くという立地もあって仕事帰りには青山や渋谷、代官山などのお洒落なショップやカフェなどに行ったりして忙しい中でも楽しみが増えてゆきました。またアパレルや雑貨業界、あるいは音楽業界などの知り合いもたくさんできました。

アルバイトで入って時給500円からのスタートでしたが、お金には換算できないいろんな大切な事を学ばせてもらったと今でも感謝しています。

ちなみにこの会社を出た人は皆さん会社を興して社長をされているようです。

花言葉は、「感謝の愛」

 その後広告代理店に入社。JAL パック(当時の企業名は旅行開発㈱:日本初のパッケージツアーを作った JAL グループ会社)の担当営業として、忙しい毎日を送っていました。そしてやっと大きな宣伝販促の仕事がとれたという矢先の事です。1985年、JAL123便の御巣鷹山墜落という痛ましい事故が起きます。

結局、派手な宣伝は一切 NG という会社の方針により、広告代理店として提案した企画は一から見直しになります。その事故後も支えていただいた JALの関係各社やお得意様へむけての感謝という意味合いで、平和のユリとも言われる「スパティフィラム」という白い花の鉢をお届けするという企画に変え提案しました。



花言葉は、「感謝の愛」



それからしばらくして私は、退社します。

これがサラリーマンとしての私の最後の仕事となりました。

<起業:1987年1月1日>会社名の選択

 今のART LAB. CO.,LTD. アート・ラボというネーミング。

名前は比較的早い段階から決められました。まだ、何をするのかも正直決められていなかったのですが、まず、スタートさせることを優先させました。

皆さんもお分かりかと思いますが、ART は、「芸術」LAB.は、Laboratory の略語「研究所」という意味です。 さしずめ「芸術研究所」という、たいそうな名前となってしまったのですが、その時はまだ自分自身でも漠然としたイメージしかなく、曖昧なところからのスタートでした。

今でこそ、「LAB.」という呼称を使う企業もたいへん増えていますが、当時は、お客様も電話口では、ART LOVE アート・ラブとしか認識されず、困惑した覚えがあります。

茅ケ崎海岸で石を拾う

 事業資金もほとんどなかった私は、友人からの勧めもあって茅ケ崎の海岸で石拾いを始めます。早朝の浜辺には、運がいいと流木なども流れ着いてきていて、格好の材料となりました。

二ノ宮という場所は、波に洗われ角が丸くなった「ゴマ塩石」(個人的にそう呼んでいました)がいっぱい堆積しているスポットがあって、卵型に近い石を分厚い帆布のトートバッグにいっぱい詰めて持ち帰っていました。(今の条例では禁止されていることなので、マネしないでください)

彫刻家の卵であった友人は石材を加工する作家(三澤憲司:ミサワケンジの弟子)でしたので、そのような情報をくれたのも今となっては理解できます。

小さな石は、箸置きとして中心部を削りへこませ、大きいものは中をくりぬいて一輪挿しとして考えました。そして、広告代理店時代に知り合ったデザイナーやカメラマン、編集者などが無償でアシストしてくれて「快石シリーズ」が出来上がります。

また、モノづくりに戻った瞬間でした。

次章へ続く・・・・